菩提寺ネット湖南市
諸雑記
しょざっき


 小学生から20年程をこの菩提寺で過ごしたわけですから、甲西町内には色々な思い出があります。
 小学校は乗合バスで通った時代もあります。中学校も町内に1つしかなく自転車で30分かけて通っていたこともあるのです。
 甲西町内にある事物に関して知り得たところ感じ得たことを諸々雑多紹介していけたらと思います。
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(筆:山本秀樹)

★甲西町の山と川

 甲西町は北と南に山々が連なり、東西に交通の要路が延びています。全体としてはTシャツのような形をしています。
 真ん中を横切る川は一級河川の野洲川(やすがわ)です。鈴鹿の峰から琵琶湖へと水を運んでいます。
 野洲川に沿って、国道一号線、旧東海道、JR草津線が東西を結びます。
 町の北部にはTシャツの首部分を占める東西に大きな山、十二坊(じゅうにぼう)があり、一帯は県立自然公園に指定されています。町の南には阿星山(あぼしやま)、三雲山(みくもやま)があって、それを南に抜けると信楽高原(しがらきこうげん)へと出ることができます。

 少し、地名を紹介しましょう。野洲川から南は元々三雲村のあった三雲。野洲川の北に岩根、そして、十二坊の東を下田(しもだ)と呼びました。
 岩根地区の西側を正福寺(しょうふくじ)と言い、その更に西にあるのが菩提寺(ぼだいじ)です。
 下田地区は北と南に分かれ、南は水戸と呼ばれるようになりました。
 三雲地区は東西に幾つかの区域に分かれ、西から柑子袋(こうじぶくろ)、平松(ひらまつ)、中央(ちゅうおう)、針(はり)、夏見(なつみ)、吉永(よしなが)、三雲、妙感寺(みょうかんじ)などの字があります。


★十二坊(岩根山)

 十二坊は岩根小学校の裏山を岩根山と言っていました。地図上では東側を十二坊、西側を岩根山としていたり様々ですが、十二坊=岩根山で良いようです。
 山頂は405mで、十二坊の東側にあるため北・東・南の3方を望むことが出来ます。その登山道は3つ、西は菩提寺から、東は大谷から、そして新たに南側から山頂へと登る道を整備しています。
 この南側と大谷林道の間に十二坊温泉と名付けられた温泉スタンドがあります。今はまだ設備がないため入浴はできませんが、環境問題もあって物議を醸しております。
 岩根の中腹には善水寺というお寺があり、室町時代に建立された本堂は国宝建造物に指定されており、その他にも重要文化財である奈良・平安時代からの彫像が多数残っています。細い山道を徒歩で登ると名水の湧き水があります。静かにひっそりとしていますが、そこから三雲方面を一望することができます。

★善水寺と口裂け女

 十二坊にある古い山寺へは小学校のときに写生のために登りました。岩根小学校から集落の中へ入って行き、細い山道を登っていくのです。
 今でもその風情は変わっておりません。ただ、善水寺から見える景色は変わっていることでしょう。
 近年、名水が湧くことでも知られるようになり、朝国にも道案内の看板が立っています。
 ところで、口裂け女ってご存じでしょうか。昭和50年代に噂が渦巻いたあれです。
 これが十二坊を舞台にした話になって、子供たちが善水寺に行くのを怖がるようになりました。当然、その年は写生会は別の場所で行われました。一過性の怪談話ですが、あれの正体は何だったのでしょうか。全国どこにでもあったようですが、1・2年で完全にかき消えました。

★天皇行幸、うつくし松

 甲西町の2大名所、それは善水寺(国宝)とうつくし松(天然記念物)です。
 美松山(びしょうざん)の南東斜面に自生している松なのですが、国内でもここにしかないという珍しいアカ松の変種が群生しています。根元付近から幹が四方八方に分かれて延びており、素朴な松がたおやかな曲線を描いています。そのため若い女性と見間違ったと伝承されるほどです。
 「東海道名所図絵」や「伊勢参宮名所図絵」にも東海道53次沿いの名所として描かれています。1981年、びわこ国体のサッカー競技会が甲西町で開催された際、昭和天皇がうつくし松をご覧になりました。
 小学生時分に遠足で行きましたが、意外にも子供心に生き生きとしたうつくし松の姿に感じるものがありました。

★野洲川と橋

 野洲川には菩提寺から石部へ抜ける中郡橋(ちゅうぐんばし)、岩根から中央へ渡る甲西橋、岩根のカントリーエレベーターから夏見へ渡る甲西中央橋、朝国と三雲を渡す横田橋、そして、県内でも3番目に長いと言う甲西大橋があります。
 中郡橋(140m)は菩提寺の交差点から南に田園地帯を抜けて石部町内を走る国道一号線に入る手前にあります。朝7時頃は大渋滞の覚悟が必要で、酷いときには菩提寺の交差点に渋滞のお尻(約1.2km)があります。
 甲西橋(320m)は菩提寺や岩根方面から中央へ行くには重要な橋でした。今では甲西大橋がその主要路線となっていますが、距離があるのに車がすれ違うにはギリギリの幅しかないため、今では信号によって交互にしか通れないようになっています。その狭い橋の端っこに自転車用の線が引かれたのは1985年頃でした。これでは余計に狭くて自転車同士はとてもすれ違いができません。ましてや、車は堂々とスピードが出せるようになりました。交通安全ってハードさえ整えれば良いってもんじゃないんですよね。
 甲西中央橋は(1972年完成、360m)は古い石造りの橋で、1985年頃の台風19号によって真ん中から半分の部分が落下しました。現在はすっかり直っています。夏には川岸の町立体育館で大きなお祭りが行われますので、対岸のカントリーエレベーター付近はとてつもなく渋滞します。はっきり言って身動きが出来ませんので、通り抜けも難しいでしょう。
 横田橋(1961年完成、240m)は国道1号線が野洲川を越えるために使っています。交通量は激しく、何故か3車線です。一番左の車線は意味がないのではないでしょうか。この橋の上は夕方が要注意です。
 甲西中央橋と横田橋の間に橋が一つ計画されています。
 さて、最後は甲西大橋(1995年完成、420m)です。はっきりいってもう少しひねった名前はなかったのだろうか。あまり有り難みのないというか、これぞ滋賀の橋というにはローカルな名前です。でかい割には交通量は少ないかもしれません。何せ、渡ったところには何もないのですから。甲西北中学校と上水道センターと町工場が数件あるだけで、甲西北部の東西の細い道につながる訳です。しかも、国道から離れていますし、野洲や竜王に抜けるにしても国道を東西に走る方が早いと思われます。でも橋はなかったけど、橋につながる道路は昔からありました。中学時分にこの先に何ができるのかと思っていましたから。それでも、菩提寺から役場へ行くにはラクチンな気はしますよ。

★朝国の東陶、柑子袋のカルビー

 甲西町の北東部に湖南工業団地があり、町の大きな財源となっています。おかげで輸入レンガ張りの立派な町役場が建っています。  それよりも少し南に朝国(あさくに)という地域があります。国道一号線が東の水口町へと出ていく交差点です。
 この交差点は、朝も昼も夕方も混雑します。その三叉路に山の上から降りてくる1本の道がつながっています。それを登ると東陶機器株式会社(TOTO)の滋賀工場があります。入ったことはありませんが、小高い山を一つまるまる所有しているように見えます。
 現在、この山を少し削って高架道路の発端を建設しています。ここから菩提寺まで8km程の高架道路が完成する予定です。
 国道一号線を西に行くと、石部町との境に近い柑子袋にカルビーの工場があります。もちろん、お菓子の製造工場ですから、アルバイトもウキウキのようです。ホントかなぁ。


★菩提寺小学校は分校だった

 今では菩提寺に小学校が2つもありますが、1976年当時は岩根小学校 菩提寺分校が今の菩提寺保育園内にありました。
 小さな校舎には職員室と2年生の教室、体育館代わりの遊戯室がありました。で、2クラスあった新1年生にはプレハブ校舎が建てられました。
 左の写真は1997年のものですが、左に見える建物は当時から保育園で校庭は共有しています。奥に見えるのが当時の校舎で校庭の右端にプレハブ校舎がありました。
 この頃はみどりの村に住んでいましたから、2年生の班長さんに従って2km程の道のりを子供たちだけでゾロゾロと10人前後の集団登校をしていたのです。今なら車で送り迎えでしょうか。当時はそれは考えられないことです。
 集団登校はいまでも続いています。当然、頭は6年生の役目です。

★岩根小学校とバス通学

 岩根というのは、甲西町の北部(野洲川の北)にある十二坊(岩根山)の南側のふもとにある地域です。野洲川沿いには広大な田園が広がっています。
 岩根小学校は野洲川の支流、思川(おもいがわ)のそばにありました。私はこの川の「おもいがわ」という名前が好きでした。
 1978年当時。菩提寺に住む子供たちは、3年生になるとこの岩根小学校(本校)へと滋賀交通バスに乗って登校していました。3ヶ月とか6ヶ月の定期を買って、20分程バスに揺られる毎日です。
 でも、これが結構楽しかった。朝はよく乗り遅れて、次のバスまで30分待つこともありました。それで遅刻したこともあります。帰りはもう戦争です。小学校の前にあるバス停にダダダッと走って行き順番を取り合います。もちろん、上級生とのにらみ合いもありました。そこでバスを待ちながら遊んだのはジャンケンで「軍艦」と呼んでいた遊びです。これをしながら順番を賭けて、勝ったら順に前に進み、負けたら後ろに回されるのです。
 一番大変だったのはバスがストライキで来なくなったときでした。これが冬だともう最悪です。気分は野麦峠でした。小学生の足では1時間30分程かかっていたのではないでしょうか。ただでさえ狭い自動車道路の端っこを連なって登校するのです。でも、やっぱり当時の子供たちは元気でした。バスが走っている時でも、山の中の林道に分け入ったりしながらわざわざ歩いて帰ることもありました。途中の正福寺で友達の家に寄ったりして暗くなるまで遊んでいました。

★岩根小学校と谷川

 岩根小学校で最も思い出深い場所は、裏山の谷川です。昼休みになると一斉に谷川の場所取りをします。みんななるべく上の方へと駆け上がっていきます。非常に澄んだ綺麗な水で、飲んでももちろんおいしかった。で、何をするのかというと、砂をかいてダムを造るのです。
 谷川とは言っても20cmとか30cmの深さで幅も60cm程しか有りません。それでも、傾斜があって流れが速かったので、くびれる場所を選んで手早くダムを造ります。そこで、直ぐ下に大きなダムを造るまでの時間稼ぎをします。2つのダムの間にある砂はどんどんかきだして大きなダムに積み上げます。もちろん、そのままでは水があふれて崩れますから、水抜きをします。支流を作ったり、水道のパイプをダムの底に通すのです。
 クライマックスはダムの崩壊です。休み時間が終わる前に一斉にダムを壊します。上にいる者は自分のダムに蓄えた水がどれだけの力を見せてくれるかを誇り、下の者はそれにどれだけ耐えられるかを誇る訳です。ですから、凝ってくると2・3人でチームを作り木の枝で骨組みを作り、大きめの石を集めて基礎を造り、それを砂で固めるということもあったと思います。水抜きは上手にしないとそこからダムの決壊が始まります。その内、壊すことよりも何日もダムを維持することに注力が傾いたように思います。

★菩提寺小学校開校

 1980年、菩提寺小学校が完成し、再び歩いての通学ができるようになりました。分校(廃止)よりも近くなり、みどりの村の自宅から1kmの所です。裏山に谷川はなかったけど、山道(獣道)があって山の向こう側まで遊びに行きました。
 竜王山の方でも、よく山の中を探検して遊びました。谷川を見つけると川の中を歩いてでも山の中へ分け入ったものです。沢ガニを捕ったりザリガニを捕ったりは当たり前でしたね。
 菩提寺小学校は校舎がコンクリートのそのままの色で、所々が、緑と黄色に塗られていました。これが妙チクリンでした。今では色あせて余計に変ですか。いや、もう景色に溶け込んでいます。
 1年目はプールもなかったし、体育館はわざわざ専用の靴(体育館シューズと呼ぶ)を履いて使っていました。
 そういえば、6年生になると掃除の区域に校長室がありました。これに当たるとラッキーです。何せ4畳半程の広さで、床は掃除機が使えて、そこに5・6人でかかるのですから手が余ります。面倒なのはやっぱり教室ですね。倍の人数でこなしますが、一々机と椅子を動かして、ほうきや雑巾で床掃除をするのですからたまりません。トイレ掃除は何故かずぶぬれになった頃に終わります。遊ぶなって。

 当時の話題が出るとき、給食に鯨肉が出ていたことを思い出します。濃い味付けで煮詰めたもので、3・4年生頃までは好きでしたが、高学年になった頃はそれが好きではありませんでした。おそらくその頃が給食に出る最後の鯨だったのではないでしょうか。

★びわこ国体開催

 1981年秋、滋賀県で第36回国民体育大会が開かれました。
 甲西の東部、湖南工業団地の手前に陸上競技場や野球場などの施設があり、甲西町ではサッカーの大会が行われました。当時、サッカー小僧でしたから毎日のように試合を見に行き、滋賀県が優勝したことも覚えています。国体は大抵開催地が総合優勝もするそうです。
 びわこ国体と呼ばれたその大会で、聖火リレーの随伴として参加することができました。
 各小学校から代表14名が選出され、先頭2名が聖火を持ち、その後ろを随伴走者が走るのです。その14番目のメンバーでした。
 正福寺の小さな町工場の前から、菩提寺の公民館までの1600m程でした。その日は気温が低くて寒かったため、ゴールした後、缶コーヒーをもらって温まったことを覚えています。

★甲西中学校は恐怖の楽園

 1982年、とにかく荒れておりました。と言っても、生徒はわりと自由な雰囲気で楽しくしてましたが、先生方は戦々恐々としていたのかもしれません。まあ、確かに授業中でも廊下で歩き回っているし、非常ベルは1日1回鳴り響くし、廊下の時計は全部壊れていた。この廊下の時計って、当然身長よりも高いところにあるのですが、これを蹴って遊ぶのです。すごい。だから、表面のガラスは全部割れてました。
 消火器騒ぎも年に1・2回は起こります。集金のお金がなくなることもしばしば、弁当がなくなることもありました。教科書が教室のゴミ箱で燃えていたこともあったそうです。2年生の時に2回新聞沙汰になりました。
 体育館の天井は穴だらけ。みんながバスケットボールをぶつけるからです。体育館の舞台の下は賭博場(花札だったようです)になっていました。もちろん、裾の控え室はタバコの煙で近づけませんでした。
 その代わり髪型服装は自由がききました。誰も校則に縛られることのない生活がありました。でも、改めて校則を読むと、靴は白、髪は刈り上げなどと戦後40年を過ぎた時代の若者にとっては根拠のない内容でしかなかったと思います。
 やっぱり、一番怖かったのは先生より上級生でした。それでも先生は友達のような感覚で親しく話の出来る方々が多かったように思います。そういう意味では、昨今よりも分かりやすい力関係がありました。

 今では中学校も3つになりました。1982年までは町内にあった中学校は甲西中ただ1校でした。
 翌年の1983年に「日枝(ひえ)中学校」ができて水戸学区、下田学区の生徒が甲西中学校からいなくなりました。私の学年は当時12クラスありましたが、それが8クラスになりました。
 その後、1987年に「甲西北中学校」ができ、岩根学区、菩提寺学区(菩提寺、菩提寺北)の生徒が通っています。甲西中学校は三雲学区(三雲、三雲東)の生徒だけになった訳です。

★希望ヶ丘は遠足の定番

 小学校で遠足と言えば、希望ヶ丘でした。中学校でも希望ヶ丘でした。おまけに、高校でも希望ヶ丘に行きました。家の近所です。
 とにかく広い山間の自然を生かした公園で、管理用の自動車道路と起伏のあるサイクリング用の道路が東西にあります。菩提寺から入れる南ゲートが最後に出来ましたが、野洲町(現野洲市)側の西ゲートと竜王町側の東ゲートには広い駐車場が用意されています。
 西ゲートにはテニスコートや陸上競技場などの施設に、大きな体育館、広大な芝生の広場があり、その山手には四段階の長い滑り台やアスレチックなどの遊具で楽しめます。自然の木々や草花を楽しむ山道も手頃な運動としては良いのではないでしょうか。
 東ゲートまでは自転車を借りて1時間程で行くこともできますし、もちろん歩いてゆっくりと行くのも良しです。展望のできる青年の城が見えてくれば旅のゴールとなります。
 青年の城は宿泊研修施設で、筒方の白い高層建築物で、ぐるりに丸い窓がいくつも並んでいます。1階は吹き抜けになっていて、巨大なダビデの像が2・3階をぶち抜いて立っています。
 宿泊室は小さな堅いベッドだけの部屋で、円い窓が1つあるだけでした。名神が見下ろせて、車の音がよく響いていました。
 小学校の時でもサッカーボールを1つ持って遊びに行きました。芝生の上で転がって遊べるところってそうそうないですからね。でも、今はボール遊び禁止になっています。昔はプールもありました。今ではひなたぼっこくらいです。
 それにしても、自転車で1時間かけて学校まで行って、バスで希望ヶ丘まで連れてこられたときは辛かった。帰りもしっかりバスに乗せられました。

★甲西高校、甲子園出場!

 これは甲西町民にとって重大事件の1つでもあります。
 1983年、甲西町に初めて高校が作られました。その名も県立甲西高等学校です。
 実は、私はそこの生徒ではありません。しかし、甲西中学校にいた多くの生徒が通っていました。その高校1年生の時のことです。
 1985年夏、甲西高校に初めて1年生から3年生がそろったその年、野球部が滋賀県予選を制して甲子園への出場を決めたのでした。そして、結果はなんと準決勝(ベスト4)まで行ったのです。
 その時の対戦相手は、清原和博(巨人)、桑田真澄(巨人)を擁したPL学園(大阪代表)でした。結果は14対2とボロボロでしたけど。まず、そこまで行くとは思っていなかったので、悔いなく応援していました。ちなみに準々決勝では東北高校だったそうですが、ピッチャーは横浜ベイスターズの守護神佐々木でした。最近のインタビューであのときPLと戦っていたら自信を失ってたかもしれないと、当時の彼らの強さを語っておりました。
 その翌年も甲子園に出場しましたが、その時のことはほとんど覚えておりません。

★滋賀県に住むと身に付くもの

 中学生の時に初めて東京へ行きました。そこはビルが建ち並び、想像していたよりも雑然とした街でした。
 大阪の片隅で幼少期を過ごしたとはいえ、あまり記憶には残っていません。日頃、京都へ遊びに行く機会はあるものの、京都と大阪ではある風景がことなります。そして、東京へ行ったときにあるものがないことに気が付いたのです。
 滋賀はもちろん、京都市も四方を山に囲まれています。見渡せばどこかに山並みが見え、方向感覚や自分の居場所が確認できるのです。
 ところが、大阪や東京ではビルが密集し、高層であるためにその背景となる景色が見えないのです。そのため方向感覚も失われ、倒れかかるようなビルの影に重圧を感じるのでしょうか。
 だから、滋賀に戻り、どこを向いても山々が連なる風景にはホッと胸をなで下ろします。滋賀は盆地ですから、山々が窮屈に迫ってくるのではなく、広がる視界の遠方に空と陸地の境界線のように並んでいるのです。まるで世界の端っこがそこにあるかのようです。
 井の中の蛙がそこから脱出するときの気持ちを大いに味わうことができるのです。

★滋賀を離れて身に染みること

 19才になって、東京(池袋)に本社のある会社へ就職し、その支店のある千葉へ引っ越しました。
 そこは船橋市飯山満(はさま)。新京成電鉄の薬園台から津田沼へ出て、京成電鉄に乗り換えて、八千代市で降りる。そして、千葉市花見川(現在は花見川区)まで歩いて仕事に通う毎日でした。
 津田沼から都内へはJR(東京、秋葉原)か京成(上野)を使って行くのですが、あの通勤ラッシュの様は見ているだけで本当にすさまじいモノです。秋葉原のホームは人で埋まり、やってくる電車もすでに人が詰め込まれています。そこへ更に人が押し入ります。大阪・京都から戻ってくる時の方がはるかに楽で、その2・3倍は人が詰まっているのではないかと思われます。一度中に押し込まれると、肩はおろか指一本動かせない状態なのです。
 それはもう異次元のような奇怪な光景で、田舎でのびのびと育った私にとっては、なんでこんな目に遭ってまで人は東京に集まるのかと思ってしまいます。
 そして、ある時、夜行列車の銀河に乗って滋賀へと一時帰省したのです。その後、何度か夜10時58分・上野発の寝台急行列車・銀河号に乗りました。そこにはまた、人生の一コマがありました。
 米原駅に朝の5時頃に到着し、5時12分の通勤特急・びわこライナーに乗り換えます。そして、6時前には野洲駅へと降りていたのです。その時、列車から降りて一番に感じたのは懐かしい匂いでした。
 それは何物の匂いではなく、その地域の空気の匂いだったのです。目の前にある風景が懐かしい本物であるのと同じくらい、その空気の匂いはハッキリと感じることができたのです。そうして、初めて故郷へ戻って来たという喜びが溢れてくるのです。
 人は匂いによって完全な記憶(視覚だけでなく触覚や味覚さえも)を呼び覚ますことができるといいます。知らない町で懐かしさを感じるのも、そこの空気の匂いのせいなのでしょう。
 あれほど、空気を美味しいと感じたことはなかったのです。誰にでもそういう一瞬があるのではないでしょうか。